
浄土からの風
西原祐治
風薫るさわやかな5月を迎えました。5月2日は、元XJAPANのhide(本名・松本秀人)の9回目の命日にあたります。世間では今、「千の風になって」という詞が再び話題になっています。実はこの二つは、築地本願寺において深い繋がりをもっています。
「千の風になって」という曲が多くの人に歌われています。築地本願寺本堂の小コーナーhideにも1998年5月から千の風の詩が置かれています。
10年前の5月7日、築地本願寺は、多くの若者の悲鳴・慟哭に包まれていました。元XJAPANのhide(本名・松本秀人)というひとりの青年の葬儀が行なわれたのです。
当日、別院の会議室にいた私の耳にも、その悲鳴が届いていました。多くの少年少女たちの悲鳴に接して、ふと『涅槃経』の言葉が浮かんできました。
釈尊は弟子に「今まで人々が流した涙と、大海の水とどちらが多いと思う」と問います。仏弟子の答えは「それは涙だと思います」。釈尊は、人の流した涙は大海の潮より多く、苦しみの中に流した血液は大海の潮より多いと仰せられたのです。その釈尊の言葉と、若者たちが流す涙とが重なりました。
この少年少女たちの慟哭は、阿弥陀如来の大悲の発動とは無縁ではありません。人類の歴史は、弱肉強食、強き者の歴史です。生命の営み自体が、弱肉強食の連鎖によって今に至っています。しかし、涙と共に力無く終わっていった生命の営みは、涙と共に力無く終わって行くものを、ありのまま受け入れていくという慈しみを生み出していったのです。
人は涙を通して苦しみや悲しみの底に流れている「一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし」という人としての真実に触れていくのです。その「清浄の心なし」の体験こそが、苦悩の衆生海にあって巧みに凡夫の私に呼びかけ続けている阿弥陀如来の働きの賜物でもあります。
先の葬儀の折、ビハーラ世話人の手によって、涙に打ちひしがれた若者へ千の風の詩が配られました。そして翌日、本堂にhideを追悼するノートが置かれたのです。そのノートは今でも置かれています。そのノートと共に置かれているのが千の風の詩です。
千の風は、1995年35舘から『あとに残された人へ 千の風』というすばらしい風景写真の上に、詩の言葉を載せた本として出版されたことに始まります。この詩は、IRA(アイルランド共和軍)のテロで命を落とした24歳の青年が「私が死んだときに開封してください」と両親に託した手紙の中に入っていたものだとも言われていますが真偽のほどは定かではありません。
A THOUSAND WINDS
Do not stand at my grave and weep,
I am not there, I do not sleep.
I am a thousand winds that blow,
I am the diamond glints on snow,
I am the sunlight on ripened grain,
I am the gentle autumn's rain.
When you awake in the morning hush,
I am the swift uplifting rush of quiet in circled flight.
I am the soft star that shines at night.
Do not stand at my grave and cry.
I am not there, I did not die.
「あとに残された人へ
千の風になって」
私のお墓の前で泣かないでください
そこにはわたしはいません
永遠に眠ってなんかいません
ほらもういまはもう世界中に吹く
1000の風の中です
雪にきらめくダイヤモンドのように
世界中を照らす光のうちにいます
実りの穀物を照らす陽の光となり
あきにはやさしく降る雨となって
すべてのものを包んでいます
あなたが朝、窓を開ければ
風となってあなたの髪を
さらさらとなびかせます
夜あなたが眠るとき
星となっていつもあなたを見守っています
だからどうぞお墓の前で泣かないでください
私はそこにはいません
私は死んではいないのです
新しく生まれたのですから
書き綴られたhideノートには、残念ながら「浄土」という言葉はありません。空、そっち、雲の上、それぞれの自由なイメージでhideのいる場所を語り会話をし、心の軌跡が綴られています。
当初、綴られた言葉で一番多かった言葉は「ありがとう」でした。勇気をくれてありがとう等など色々なありがとうがありました。その次に多かったのが「永遠に私の心に生き続けます」に類する言葉でした。
しかし半年過ぎた頃より「お元気ですか」という言葉が記されるようになっていきます。そして次に自分の近況を書き込みます。故人との出会いの場は、そのまま亡き人から見られている自分との出会いの場でもあるのです。
最近のノートを開いてみました。
「まだ弾きたいのなら、俺の指をつかっていいぞ!」
「ヒデの歌にいっぱいいっぱいささえられました。ありがとう」
「私は元気です。私はあなたにちゃんと胸をはって私は生きてるよ!!≠ニ言える自分でありたくて日々生きています。まだまだ未熟な私だけど、これからも前を向いて生きていくから、空から見ていてね。私もさびしい時、つらい時、空を見上げてあなたのことを思い出します。私は大丈夫だよ!!いままでありがとう。そしてこれからもよろしくね」
千の風の「死んでなんかいません」という一節がhideノートに綴られた多くの人たちの言葉から伝わってきます。
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題名「浄苑」 |
別院第一伝道会館ブディストホールロビーに掛けられてある「浄苑―hideへ千人のありがとう―」と題する岩絵の具による百二十号の日本画をご存知でしょうか。
菩薩が阿弥陀如来により添っている構図で、その余白に目を向けると、色づけられる前の素地に若者の執筆による沢山の「ありがとう」の文字がうっすら見えます。この絵はhideの一周忌のとき別院に参拝した若者たちの手で、思い思いのありがとうを描き入れてもらい、新美術協会会員の大畑久子さんらによって仕上げていただいた画です。死別の悲しみが阿弥陀如来に繋がっていることを象徴したものです。
仏画では、浄土の風を胸部の肌に一本の線を入れることによって表現します。その線で力を表し、その力によって唇から浄土の微風が起こるのです。浄土の風は仏力そのものなのです。
浄土からよせられる風は、決して心地よいものばかりではありません。如来の催促とも言える思い通りにならないという苦しみや悲しみ、その心の痛みを通して人は人としての真実に出遇っていくのです。苦しみを通してあきらかになっていく自我の愚かさは、迷いを生きていることの苦悩であり、浄土の風によって捲き起こされる凡夫の音色でもあります。
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築地本願寺本堂内「hideコーナー」 |
hideのコーナーは、亡き人を通して自分に出会っていく場であり、そのままが浄土からの風に触れる空間なのでしょう。
清風宝樹をふくときは
いつつの音声いだしつつ
宮商和して自然なり
清浄勲を礼すべし
親鸞聖人の『浄土和讃』に、浄土の風を讃えておられます。
浄土から届けられる清らかな風に触れると、苦しみや悲しみの中で虚しく終わらせず、凡夫の私を仏にするという阿弥陀如来のぬくもりが感じられます。
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降誕会を祝う〜人身受け難し〜
万行寺住職・東洋大学講師
アーユス仏教国際協力ネットワーク理事
本多 靜芳
5月21日は、宗祖親鸞聖人の誕生日(降誕会)と伝えられています。4月8日は、お釈迦さまの誕生を灌仏会(花まつり)としてお祝いしました。一体何がおめでたいことなのでしょう?
この世に生まれてきたのは、私の思いも至らない様々なご因縁に恵まれて、今回、人間として生まれました。まさに、「人身受け難し、今すでに受く」(礼讃文)です。そして、この限りあるいのちを終えて、この世での因縁のままに、それぞれの往生を遂げます。
ところが、私はこうしたことを気づかず生きています。ことわざに、「受けた御恩は石に刻み、かけた情けは水に流せ」とあります。しかし、私は、「受けた御恩は水に流し、かけた情けは石に刻む」ような生き方しかしていません。
頭で知っていても、やっていることは道理に背いた正反対の生き方です。だから、自分の都合のみ主張しているので、相手の正しさが見えてきません、いや認められません。
ましてや、私がこの度、私として、何よりも人間として生まれられたということを不思議とも、有り難いとも思わず、昨日も過ぎ、今日も過ごしています。
まったく地獄行きの生き方です。その生き方とは、平等に背き、平和を無視し、自己中心的な迷いそのものです。
しかし、念仏の行道を親鸞さまは、「本願招喚の勅命」といわれ、阿弥陀仏の本当の願いが、私を真実に招き、そして喚びかけてくれている命令だと示されました。
私の生き方の上に、差別や平和への関心が湧くというのは、まったく希有な出来事です。これこそ、「仏法聞き難し、今すでに聞く」(同)と法の真実に出会うということでしょう。
ここに、釈尊の誕生、親鸞さまの誕生を通して私のいのちが、そして、一度も会ったことのない地球の裏側の人のいのちも、動物も植物も、すべてかけがえのないいのちであり、また尊いいのちであったと深く知らされることこそ、お誕生をおめでたいといえることではないでしょうか?
「人身受け難し今既に受く。仏法聞き難し今既に聞く」
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「あるある」よりも大事なこと
東京教区相談員 松本 智量
「納豆が 好きな妻見りゃ 分かる嘘」(TBSラジオ「荒川強啓デイキャッチ」より)
情報バラエティー番組の「捏造」問題が番組や局を越えてまだまだ飛び火しつつあります。
「メディアリテラシー」という言葉をご存じでしょうか。リテラシーとは本来は「識字能力」の意味ですが、メディアリテラシーとは、メディア(マスコミやインターネット)の情報をいかに取捨選択していくかの技術を指します。いや、技術というより姿勢といった方が近いかもしれません。メディアに対する姿勢。それが「あるある」以上に試された格好の例が今年初めにありました。
いまどきの親?
今年1月、大手新聞各社は一斉に、文科省が発表した学校給食費の滞納調査結果を報じました。当時は多方面で非常に話題になったものですが、この記事をたぶんみなさんは次のように記憶しているのではないでしょうか。
「今、全国の小中学校で給食費の滞納が問題になっている」「滞納者が増えている」「その原因は払えるのに払わない親がいることだ」「給食費を払わないのに高級車に乗り回している親がいる」
つまりこの調査結果は親のモラル低下を示すもの、という見方です。実際に、今の乱れた世相の象徴としてお寺での法話で言及されたことも数度耳にしました。
給食費滞納をめぐって
この記事をもう一度読み直してみます。1月24日の朝日新聞から。見出しは「給食費滞納、全児童生徒の1% 総額22億円」。本文は次のように書き出します。
「給食を実施している全国の国公私立の小中学校で、全児童生徒の約1%にあたる10万人近くが05年度に給食費を滞納し、滞納総額は22億円余りになることが24日、文部科学省による初の調査でわかった。滞納がある学校は全体の約44%。滞納の理由について学校側は、60%の子どもについて「保護者としての責任感や規範意識」の問題、約33%については「経済的な問題」と見ている。」
そして記事の終りでは教師への質問としてこんな記述があります。
「過去と比べて給食費の滞納が増えたかどうかについては、「かなり増えた」が13%、「やや増えた」が36%で約半分の学校が増加傾向とした。「やや減った」は9%、「かなり減った」が3%で、「変わらない」は39%だった。」
これを読む限りでは、確かに滞納者は増えていると受け取れます。
しかしこの文科省報告には重大な瑕疵、と言うよりまやかしがあったのです。
滞納者は減っている
最後の教師への質問は、実は、滞納者がいる学校の教師だけを対象としたものでした。
記事の冒頭にある通り、現在滞納がある学校は全体の44%、滞納がゼロの学校は56%です。現在滞納がない学校の中には、過去にさかのぼって一貫して滞納がない、「変わらない」学校もあるでしょう。以前は3件あったが今はゼロ件に「やや減った」、以前は10件あったのが現在はゼロ件に「かなり減った」学校もあるかもしれません。それらがすべて無視されたのが先の数字なのでした。
増減の答を全体の中で見直してみると、「かなり増えた」「やや増えた」は21%になります。一方「やや減った」「かなり減った」「変わらない」は79%ということで、この数字が示すところは、滞納者は増えていない、それどころかむしろ減っていると読む方が適切でしょう。
そうして改めてこの調査を見直すとあきらかなのは、経済の地域間格差です。各自治体の経営責任が個人のモラルの問題にすり替えられたと考えるのはうがちすぎでしょうか。
報じられているような非常識な親もごく一部には実際にいるのでしょう。また、モラルが低い親がいるとは私も思います。しかし調査結果を逆に読めるよう見せかけ、世論を操作する。そこには何らかの意図があると考えざるをえません。この滞納問題が報じられた同日に教育再生会議がまとめた第1次報告では、『家庭の責任』がうたわれています。
善人になっていないか
メディアリテラシーは、端的に言えば「疑う」ことです。情報自体を疑うことであり、情報の発信源を疑うことであり、情報を受けとるこの我が身を疑うことです。「疑う」というと少し聞こえが悪いような気がしますが、つまりは「絶対視しない」ということです。自らを絶対として疑わない(それを浄土真宗では「善人」と呼んできました)ことが、納豆を余分に買わせられるくらいならまだしも、世界像の誤構築に加担することもあることを覚えておきましょう。
※本稿は松沢呉一氏のメールマガジン『マッツ・ザ・ワールド』から多く示唆をいただきました。
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【椎茸の海老シュウマイ】
東京都・称名寺坊守 石川紀久子
今回のお料理は、椎茸を使ったシュウマイです。きのこ類は、ビタミンやミネラルが豊富で、食物繊維が豊富なうえにノンカロリーです。蒸し料理は蒸気が100℃以上にならないので温度管理の心配がなく、また、食材の旨味や栄養はそのままで余計な脂肪分を落とすので、簡単で手間が掛からずダイエットや健康志向に最適な調理方法です。シュウマイは皮で包むものと思いがちですが、ちょっと目先の変わった華やかな一品ですので、沢山作って大皿に盛ればおもてなしに最適です。
[材料(6人前)]
生椎茸 12個
エビ 200g
トリの挽肉 200g
白ネギ 5cm
たけのこ 30g
固形スープの素 1個
シュウマイの皮 1パック
片栗粉・黒炒りごま・青のり 少々
調味料A
しょうが汁 大サジ1
酒・ごま油 各小サジ1
しょう油・砂糖 各小サジ1/2
コショー 少々
[作り方]
@椎茸の軸部分(石づき部分は切り落とす)・白ネギ・竹の子をみじん切りにする。エビはカラをむき背わたを取り荒く切る。
A@の材料とトリ挽肉・固形スープの素(細かく砕く)と調味料Aをフードプロセッサーにかけペースト状にする。
B椎茸の傘の裏側に薄く片栗粉をまぶし、Aのペーストをこんもりと乗せ、シュウマイの皮を細切りにしたものを乗せる。
CBを適当な大きさの皿に傘を下向きに並べ、沸騰した蒸し器に入れ強火で12分間蒸す。
D器に盛りつけ黒ごまと青のりを振る。タレの味はお好みで、溶きからし・酢醤油・豆板醤などでお召し上がり下さい。
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悟りと救い2
京都女子大学名誉教授 瓜生津隆真
「無常」の教え
「シャボン玉」の童謡が、無常を歌ったものであることは広く知られていますが、近年その詳細が知られるようになりました。
童謡詩人野口雨情(1882〜1945)は、作曲家の中山晋平、歌手の佐藤千夜子とともに、全国童謡キャンペーンのため徳島に滞在中、郷里茨城から悲しい知らせが届きました。
2歳になったばかりの愛し子の死を知って、雨情の悲しみはいかばかりであったでしょうか。その3年後、仏教児童雑誌「赤い鳥」に、雨情は「シャボン玉」の童謡を発表しました。大正10年のことです。
シャボン玉とんだ
屋根までとんだ
屋根までとんで
こわれて消えた
シャボン玉消えた
とばずに消えた
生まれてすぐに
こわれて消えた
風、風吹くな
シャボン玉とばそ
この「シャボン玉」の歌には、愛し子の死という厳しい人生無常に直面した雨情のわが子の死を悼む心情があふれています。
作曲は中山晋平さん、歌手は佐藤千夜子さん、楽しく聞こえる歌声の中に、愛し子を失った父親の悲しみ、わが子を思うやるせない心情が、「シャボン玉消えた、とばずに消えた、生まれてすぐに、こわれて消えた」と歌うシャボン玉と重なりあって、一層哀れな思いを引き起こすのです。
人生無常の現実の姿をわが子の上に見て、悲しまない親がいるでしょうか。特に第二節だけで、「消えた」という句を3回もくり返していて、それだけに雨情の心情がありありとうかがえます。
しかし、雨情は無常の現実をただ悲しんでいるのではありません。悲しみの中に愛の無常を知り、人生の苦悩を深く見つめている眼差しが感じられます。
蓮如上人の「御文(御文章)」を見ますと、「人間は出づる息は入るをまたぬならいなり」(2帖5通)とか、「よくよく人間のはかない姿を考えると、無常のことわりを何人も逃れることはできない」(3帖4通)といわれ、また「白骨章」(5帖16通)には、人間のいのちのはかなさや、この世の無常のことわりが、随所に述べられてます。
このように無常を知ることは、仏道の第一歩と言って過言でありません。わが身自身の上に無常のいのちを受け入れるとき、私たちは苦悩の中に大悲の救いが働き、またそこにこそ万人平等の救いと、至純の愛があり、人生の救いがあることを知るのです。
蓮如上人の教えを受け、近江金森の門徒衆の中心となって活躍した善従(のち道西と改める)のエピソードが、『蓮如上人御一代記聞書』(198条)に伝えられています。
善従の宿舎に、ある人が訪ねていかれたところ、まだ履物を脱がれていないのに、善従は仏法のことを話し掛けられました。同行した人が「まだ履物も脱いでおられないのに、急いで話されなくても」といわれたところ、善従は「出る息は入るをまたぬ浮き世です。もし履物を脱がれない先に死去されたらどうしますか」といわれたことを伝えています。
このように無常の世の中であるからこそ、大切なことを急がねばなりません。坂村真民さんは、
いま大切なことは、
かってでも、これからでもない
一呼吸、一呼吸の、今である
と作詩し、これは仏陀の無常についての教えによって作ったのである、といわれています。
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秘密をもつ意味
龍谷大学教授 鍋島直樹
ひとは誰にも、他人にはいえない秘密があります。一般的に、秘密を持つことは悪であり、どんなことも隠さずに人に打ち明けることがよいとされます。しかしまた、誰にもいわず大事なことを心に秘めていることが、自分を成長させるみがき砂となる場合もあります。
子どもが自分のことをだんだん大人にうち明けなくなると、寂しく感じますが、子どもは秘密をかかえることを通して、自分の足で歩きはじめます。だから子どものすべてを知ろうとするあまり、学校の先生が、朝の校門前で生徒のカバンのなかをあけて覗いたり、写真や手紙を広げて見たりすることは、その子を保護したことにはならず、逆にその心を閉じさせてしまうでしょう。表面的には、よい子をふるまうようになっても、その子は自分を信じてもらえないという虚しさから、孤立してしまうかもしれません。重要なことは、大人に秘密のすべてを言葉にして話さなくても、自分の秘密の重さをどこかでわかってくれる人が傍にいれば、それだけで心の支えになるということです。私自身、小学校五年生のときに、学校の帰り、友達と工事現場で火遊びをしていて、職員に見つかり、きつく叱られました。帰ると家にはたまたま父だけがいました。涙をこらえている私を見た父は、その日に限って、何も問いたださず、お菓子とジュースを目の前において、「これでも食べるか」といいました。それがなんともいえない励ましとなり、かえって自らの罪の大きさに眼を向けさせてくれました。あのときの父の温かさを、今でも折にふれて思い出すことがあります。
それでは大人の秘密はどうでしょうか。場合によっては、自分のみがき砂になることもありますが、一歩まちがえば、秘密がふくらむにつれ、いよいよ動けなくなって心が血みどろになり、相手にも自分にも深い傷を与えてしまいます。このように、自分のなかの秘密は、心の傷や罪の領域に触れています。誰もがどこかで秘密をかかえて生きていることは、みんなすごい傷をもっているということでしょう。そしてそこにおいて、互いに心がつながってくるかもしれません。
私たちは、ときにひとりぼっちになります。しかしその私を仏さまはいつもじっと見守っています。仏さまを自らの心の相談相手として手を合わせ、静かに自分をふりかえり、素直に生きることが大切です。仏さまが月のごとく優しくあなたを照らすように、じっと黙ってそばにいる存在のあることが、自らの愚かさと行くべき道を知ることとなるでしょう。
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親縁山弘徳寺(しんえんざんこうとくじ)二十四輩第五番信楽房
編集委員・酒井 淳
厚木市飯山の弘徳寺の開基は二十四輩第五番信楽房です。信楽坊は『弘徳寺略縁起』では相馬太郎義清と伝えています。
『弘徳寺略縁起』には相馬太郎義清は親鸞聖人が常陸国稲田の禅坊におられたとき、親鸞聖人を慕って弟子となり信楽房という法名を賜り、自宅を念仏道場とし、常に親鸞聖人の身近に奉仕したと伝えています。
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弘徳寺本堂 |
千葉常胤と源頼朝
弘徳寺の伝えるところでは信楽坊は相馬家の祖となる相馬師常の子としています。師常の父は坂東八平氏の流れを汲む千葉常胤で、平氏追討の挙兵をするも石橋山に破れ下総に逃れた源頼朝に内応し、平氏目代を斬り、300騎をもって下総国府にて頼朝に謁しています。寿永三(1184)年には頼朝の弟源範頼に従い木曾義仲を討ち、さらに西国における平氏追討に軍功を挙げ頼朝から下総の守護に任ぜられています。後に常胤は頼朝の奥州藤原氏の討伐にも従っており、頼朝からは父の礼をもって遇されたといいます。信楽坊の父相馬師常も父常胤とともに奥州征伐に従い、その功によって陸奥国行方郡を頼朝より賜っています。
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善鸞大徳木像 |
相馬師常と法然聖人
相馬師常は父常胤が亡くなった後に出家し法然聖人に帰依し弟子となっています。親鸞聖人と信楽房の父は法然聖人門下において兄弟弟子であったことになります。
師常は元久元(1205)年11月15日に鎌倉の屋敷にて端座合掌のうちに念仏しながら往生したと伝えられ、鎌倉の人々は師常の往生に結縁しようと彼の館に集まったといいます。信楽坊が稲田の禅坊に親鸞聖人を訪ね弟子となった背景には父の専修念仏の信仰があったことが伺われます。
弘徳寺の寺伝ではかつてこの地には聖徳太子の発願によって秦河勝が地蔵菩薩を安置するために建てた地蔵堂があり、そこに親鸞聖人が御巡錫になり、その宿縁を大変喜ばれて、ここに草庵を結ばれて浄土真宗の教えをひろめられ、後に信楽坊に草庵を託されたと伝えています。
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善鸞大徳の墓所 |
善鸞大徳の墓所
『新編相模風土記稿』も弘徳寺を親鸞聖人駐錫の旧跡と記しています。『新編相模風土記稿』はさらにこの親鸞聖人の旧跡に親鸞聖人の息男善鸞が草庵を結び、親縁山心光院と号し、弟子の浄念とともに住み、善鸞大徳は臨終に及んで、この草庵を浄念に付属したと記し、また浄念滅後、下総新堤村の弘徳寺の住僧が兼帯したと記しています。弘徳寺では開山を信楽とし2代を浄念としています。
弘徳寺には善鸞大徳の御墓所があります。弘徳寺の本堂の南に小高い丘があり、ここが善鸞大徳が埋葬された墓所と伝えられています。親鸞聖人の息男善鸞大徳は聖人の晩年関東に派遣されますが、やがて父の教えとして異説を説き、これが、親鸞聖人の知るところとなり、義絶されています。
『慕帰絵詞』と『最須敬重絵詞』には親鸞聖人の曾孫覚如上人が関東で親鸞聖人の名号を首に掛けた善鸞大徳と出会われたことが記されています。勘当された後も善鸞大徳は関東を経回されていたようですが、弘徳寺の所伝では、晩年に近づきここに御滞留され、弘安元(1278)年3月22日に御歳65歳にしてお亡くなりになったと伝えています。
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GNH(国民総幸福)
群馬県西福寺住職 阿部信幾
ブータンはGNH(国民総幸福)という事を提唱しています。これはGNP(国民総生産)が増える事が人間を幸せにする、という考え方に対して出された提案で、人間が幸せを感じるには、何が必要か?何が無くてはならないかという言葉です。1、豊かな自然。2、安定した経済。3、伝統文化(ブータンでは仏教を指す)。この三つが揃わなければ、人は幸せを感ずることが出来ないというのです。日本には豊かな自然がある…(大分壊されましたが)…経済は豊かである…さて、伝統文化(仏教)は…?ブータン人はおおむね殺生を嫌います。ホテルの風呂に大きな蜘蛛が出た時、従業員はその蜘蛛をそっと紙に挟んで、外に逃がしてやりました…お釈迦様の教えが生きている!ブータンで何より感動したのは、仏様の教えが人々の生活に深く浸透し、人々が幸せを感じながら生きている、その笑顔でした…何時の日か日本も…。
(つづく)
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広島東洋カープ選手 梵 英心(そよぎ えいしん)さん
編集委員 西原 静香
広島県三次市の出身で、実家は江戸時代初期から続く浄土真宗本願寺派専法寺。地元の広島・三次高―駒澤大―日産自動車へと進んだ後、「広島東洋カープ」へ入団しプロ野球選手という夢を果たした。2006年セ・リーグの最優秀新人(新人王)を獲得する。梵選手は「聞いた時は信じられなかった。野球を続けてきてよかった」と爽やかな笑顔でその喜びを語ってくれた。
新人王獲得への「ターニングポイント」となったのは、巨人戦での初アーチ。その日は祖父・宝英さんの葬儀が営まれるも試合のため参列は叶わず、手を合わせて球場へと向かいそこでのホームランとなった。開幕後不調が続き怪我に苦しむこともあったが、「おじいちゃんに早く活躍した姿を見せてあげたかった。こんなことで迷っていてはだめだ」という思いを強くし、ここから本来の自分に戻ることが出来たという。大好きだった祖父の死を通してプロ野球選手としての厳しさを乗り超えられたと語るその表情からは、家族思いの優しさとプロとしての精神的強さを感じた。
お寺で育ったことについて、小学4年生で野球を始めてからは練習に忙しかったというが、小さい頃はお参りをしたり、大晦日にはみんなが集まりわいわいと除夜の鐘を撞いたことなどたくさんの楽しい思い出が残る。社会人野球時代には大会で京都を訪れると、試合の合間を縫って西本願寺に足を運びお参りをされた。お聴聞は「新鮮で、精神的に浄められる思いがした」と語り、お寺はやはり心落ち着く場所であるという。
現在の活躍ぶりにはご家族はもちろん、ご門徒さんも大喜び。みんなに気にかけてもらっていることを感じる、と話すその言葉からは感謝の思いが伝わる。現役中には難しいながらも将来的には得度も考えているというから、元プロ野球選手僧侶が誕生することになるかもしれない。今後については、怪我をせず上を目指して頑張りたいとの目標と、「専法寺とともに、浄土真宗を弘めたい」と心強い一言を聞かせてくれた。
今シーズンは梵選手に大注目、活躍を応援して下さい。
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