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これより下は先月号の築地本願寺新報内容を掲載しています

法味春秋

アシカshow

東京仏教学院講師
網代豊和

 

 以前、娘を連れて水族館に行った時のことです。受付でアシカとイルカのショーがあると聞いたので、定刻に会場へと赴きました。飼育員さんの楽しげな演出で、会場はなかなかの盛り上がりを見せました。そしてアシカの出番がやってきました。3頭のアシカがやって来て、色々な仕草を見せてくれました。娘も興味津々。やがて1匹のアシカを残した飼育員さんは、このアシカ、実は計算ができるのですと紹介したのです。するとアシカの前に、1〜9までの数字が並んでいる大きなパネルが運ばれてきました。その後、飼育員さんがアシカに問題をだします。4+2と書いてある紙をアシカにみせたのです。 ・・・アシカは少し間をあけ、6のパネルの前まで歩いて行き、止まりました。会場はすごいと拍手喝采。私も驚きましたが、深く疑ってもおりました。続いて第2問目です。飼育員さんは3+3と書きました。・・・会場に笑いがおこりました。

 もちろんアシカに計算などできません。根本的に人間の世界で用いられる数字の意味さえ解るはずがないのです。飼育員さんは、アシカにあわせて、問題を変えていただけなのです。つまり、飼育員さんはアシカが6の前で止まれるように調教していたので、それにあわせて問題をだしただけなのです。

 翻って、迷いに生きる私達は悟りの世界のことなど解りません。そんな悟りの世界のことが解らない、愚かな私(凡夫)をお見通しくださり、仏は、私にあわせたお念仏のみ教えを与えてくださったのです。そのような私にあわせてくださる仏を阿弥陀仏と申させていただきます。

 どうして、南無阿弥陀仏なのか?などと私が疑う必要などないのです。私が疑う前に、阿弥陀仏が私のことを解って、ご用意くださったお念仏であります。 他力には義なきを義とすとしるべきなり。(「自然法爾章」)他力(阿弥陀仏の本願力)というのは、凡夫のはからいがないことが義なのである、と親鸞聖人はお示しくださっておられます。

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特集

諸行無常を聞く

北畠晃融

 

”新“の意味
 新年を迎えて早一ヶ月が過ぎました。時の過ぎ去るのは早いものとしみじみと思います。まさに無常の中のいのちを思います。
 さて、昨年ずいぶん話題になりました漢字協会。その協会の発表した昨年一年を表わす漢字は、”新“の字でした。確かに鳩山新政権の誕生、オバマ新大統領の就任、新型インフルエンザの猛威など、新のつく言葉はたくさんありました。しかし、どちらかというと、現代の閉塞的状況の中で、辛い、苦しいことの多い年だったのではないでしょうか。むしろ、その辛さをのりこえて、新しい希望のもてる社会をという願いもこめられての新の字の選定であったとみることもできるでしょう。
 その新の字の成り立ちを見てみますと、は、辛(鋭く尖った刃物の象形文字)と木の合わさったもので、鋭い刃物で木を切ると新しい木肌が中からでてくるという意味があり、さらにたくなった表の皮をきざみこみ、中のいのちを成長させるために、右側に斧(斤)をつけてあるのだそうです。まさに無常の現実の中で、ただ漫然と無駄に過ごしていたのでは本当の意味での新しい自分には出会えない。そのためには、肌身にこたえるような準備をしていくことが必要であるということでしょう。ここに新の意味の面目があります。

四つの誕生
 亀井勝一郎氏は四つの誕生のことを言われています。第一は今生へのいのちの誕生、第二は青年としての目覚め、第三は宗教的な目覚め、第四はいのちの死の四つの誕生です。つまり、一瞬一瞬変化しつづけ、新しい私、とのであいの連続であることを、人生の大きな四つのポイントで教示していることでしょうし、いのちの死は真実界への誕生であり、そのためには、私のいのちのありようを骨身をけずるおもいで、仏の教えに聞きつづけることを教示していることでもありましょう。ここで仏教の教えに諸行無常の意味をたずねてみます。

 

無常感から無常観へ
 無常を語る時、引きあいにだだされる言葉に「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまる例なし。世の中にある人と栖と、またかくのごとし」(『方丈記』)の言葉があります。〈人も、栖も共に泡沫のようなもの〉との無常のとらえ方は、私達に大きな共感をよんできました。しかし、この感覚は、川岸の上から見ている感覚(無常感)であり、自分そのものが入っていない。自分こそが無常の真っ只中の泡沫であるとの自覚にたった時こそ(無常観)、私の生き方の上に大きな意味が生まれると、諸師は教えてくれています。
 ある哲学者が「他人と自分の違いよりも、昨日と今日の自分の違いの方がよほど大きい」という意味のことを述べています。私たちは他人には目が向きますが自分の相はなかなか見ようとしません。変わっていないと思ってる私は、一瞬一瞬確実に変化しており、やがては老い、死を迎えねばならぬ事実を表している言葉でしょう。このように、「世界のあらゆるものの本当の姿は絶えず変わり続けている」ということを釈尊は諸行無常と示されたのです。これこそが仏教の出発点なのです。
 この仏教で説く無常の言葉は、先程の『方丈記』のように、散って滅んでいくという向下的側面だけでなく、無常とは変化することを意味するのですから、同時に、誕生し、成長、発展していく向上的側面も当然ながら含まれています。もし無常でなかったらいくら努力しても満点はとれません。無常だからこそ、努力の如何では満点にも0点にもなります。秋になれば落葉し、春に芽吹いてきます。つまり、すべてのものを生と死の両面でおさえ、時々刻々と変化する相を、私自身のこととしてうけとめるところに、諸行無常の意味があるのです。
 釈尊は死の直前に、「もろもろの事象は移り変わる。汝、怠りなく努力せよ」と、嘆き悲しむ弟子たちに話したと伝えられています。この遺誡は、「世間ははかないから仕方ない」と教えているのでは決してありません。人間は限りある命を与えられており、唯一人として無常は避けられない中で、今の一時を無駄にすることなく、努力精進して生きるべきことを教えているのです。無常をのりこえて、真相を、私自身のこととしてうけとめるところに、諸行無常の意味があるのです。
 釈尊は死の直前に、「もろもろの事象は移り変わる。汝、怠りなく努力せよ」と、嘆き悲しむ弟子たちに話したと伝えられています。この遺誡は、「世間ははかないから仕方ない」と教えているのでは決してありません。人間は限りある命を与えられており、唯一人として無常は避けられない中で、今の一時を無駄にすることなく、努力精進して生きるべきことを教えているのです。無常をのりこえて、真実の世界をめざす歩みをするべきだと教えているのです。
私達は身近なできごとから今の自分をふりかえり、何にめざめ何処にむかって生きてるかを知らねば、そこには寂しい生き方しかないことに心したいものです。

 

老・病・死は異常?
 妻が知人の葬儀の手伝いの時に、知人の子供の姿が見えなかったのでたずねると、「祖父の死に顔など見せたくないので親戚に預かってもらってる」との返事だったと話したことがありました。これでは家族の中で大事なことが伝わっていかないのではないでしょうか。養老孟司先生が以前の新聞に、「都会では九割の人々が病院で死ぬので、日常生活から死が離れ、老・病・死は異常の考えが中心となり、子供たちに忌み嫌わせる世界を作り出してる・・・」という意味のことを書いておられました。亡くなられた方のお骨を拾い、いろいろな思い出を話すことは、大切な感情を育んでくれますが、しかし現代は死を異常なこととして消し去ろうとしているのです。
 仏教は人生を生死としてみます。生まれたからは死をさけられません。まさに生死は一体なのですが、死を異常として遠ざける生き方は、自分の生命を粗末にしている生き方になっているのではないでしょうか。反省せねばならない現代人なのかもしれません。
 『法句経』に「人の生を受くるは難く、死すべき者の命は有難し」とあります。つまり、めったにうけられぬこの世に生を受けたからは、死は誰もさけられぬ必然の中で、誰にも代わることのできぬかけがえのない生命を恵まれたよろこびを述べた言葉であります。つまり、仏教が生とともに死から目をそむけないのは、〈恵まれた尊い生命を本当にいかす〉ことを教えているからなのです。

 

「わかきとき
仏法はたしなめ」

 『蓮如上人御一代記聞書』に、「わかきとき仏法はたしなめと候ふ。としよれば行歩もかなはず、ねぶたくもあるなり。ただわかきときたしなめと候」とあります。諸行無常の真っ只中にある今の今、私の得難い生命の意味を考え、その生命の行方を学ぶことの大切さを教えてくれています。まさに身近な人の死を通して生命のありようを聞き、それを伝えていくことの大切さでしょう。
 社会学者の鶴見和子さんが十年程前の新聞に、「小さな子供は無意識に歩くようになるけれど、脳卒中で倒れた半身不自由なわたしのような老人は、左足に体重をかける間など、その日の体調とか天候によって変えるよう、一歩一歩意識して歩く稽古をする。つまり、人間の基本にかえってもう一度考える。それこそが老いることの良さです。倒れて、自分が生まれてきたことの意味を静かに考える期間がもてたのは大収穫でした・・・肉体的にはしびれて足が痛く辛いです。でも精神的には〈生きながら死んでる〉よりも〈死にながら生きている〉状態の方がずっといい。・・・老いて障害者になって、他に生かされている有り難さをはっきり感じる今日です」と書いてありました。私達に大切なことを教えてくれています。誰もがさけられぬ老・病から自分の命の意味を考えることができたこと。ただ漫然と生きるのでなく、死と真向きになる中で、生かされて生きることのよろこびがのべられています。老・病・死は決して異常でなく自然なことです。仏教は、無常の人生の中で派生する苦悩を無駄にせず、その意味をみいだし、それをのりこえていく道を教えています。現実の苦悩が消えてなくなるという意味ではありません。仏の教えを身につけるということは、尽きることのない苦悩を、真正面から受けとめられる人間になるということです。私が大学生の時、金子大栄先生が「念仏者の人生において無駄なものはひとつとしてありません。すべてのことが必要にして十分なことだと受けとって生きていくことが念仏者の生き方です」と話されたのを聞かせてもらいました。阿弥陀様の大慈悲の中で、二度とない人生を感謝しながら生きてゆきたいものです。仏教は、今生から未来へと続く無量の生命の約束を教えています。生死一如を説く仏意をくみとり、お念仏相続の歩みをさせていただきたいものです。

※亀井勝一郎
一九〇七年〜一九六六年文芸評論家仏教信仰に関心を深め、宗教的立場から文芸評論・文明批判で活躍。著書に『大和古寺風物誌』『親鸞』他


プロフィール

北畠晃融(きたばたけこうゆう)一九四七年山形県に生まれる龍谷大学大学院修了前中央仏教学院長著書『仏道を学ぶ』『仏恩のふかきこと』 『春風ひかる』(共著)等論文「教育原理としての仏教」その他

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マダムキッコのおもてなしレシピ

新たな関係を阻害しているのは

東京教区基幹運動推進相談員

松本智量

 

 各種の映画賞が発表される季節になりました。
 私がこの一年間に上映された映画のベストワンを選ぶなら、クリント・イーストウッドが監督・主役を務めた『グラン・トリノ』を挙げます。
時は現代。主人公ウォルトは偏屈なアメリカ老人です。現役時代はフォードの熟練工としてアメリカ経済の黄金時代を支えた彼は、現在は妻を亡くし、子どもの家族とも折り合いが悪く、孤独な一人暮らしをしています。町はさびれ、近隣はアジア系移民ばかりになりました。彼らを毛嫌いし接触をもたないウォルトでしたが、町の不良グループに絡まれていた少年タオを結果的に助けたことにより、モン族の人びとと交流を持つようになり、彼らの文化に目が開かれていきます。
 タオとその家族は、不良グループからふたたび狙われます。常にライフルを携行し、誰彼構わずに銃口を向けることで自らを護ってきたウォルトでしたが、タオが暴力による報復に走ろうとするのを目の当たりにして激しく葛藤します。なぜならウォルトは、朝鮮戦争時の戦場での加害体験により今なお苦悶する経験を持っていたからです。そしてウォルトはこれまでとは全く異なった方法で不良グループのアジトに向うことを決意したのでした。その行動は、ウォルト(つまり古き「良き」アメリカ)の歴史を全否定するに等しいものでした。
この映画のテーマは大きく三つ挙げられます。「多民族の共生」「魂の救済」そして「暴力の連鎖からの脱却」です。思えばこれらは、21世紀に入ってからのアメリカ(に先導された世界全体)のテーマそのものと言ってもいいかもしれません。それらに対峙する上で欠かせない姿勢としてクリント・イーストウッドが提示したのは「自他の変化を尊重し、承認すること」でした。
「あるべき、あるはず」という自他への拘泥や執着は、新たな関係の発見と構築を阻害します。それは、本来は広がりゆくはずのいのちを矮小化する態度とも言えましょう。
 昨秋、築地別院本堂で開催された「平和フォーラム二〇〇九」(東京教区基幹運動推進委員会主催)のテーマは「BetheChangeおかげさまからつながる世界」でした。「Be theChange」とはマハトマ・ガンディ氏の言葉の次の言葉から採ったものです。
「BeTheChangeYouWishToSeeInTheWorld」(世界を変えたければ、まず自分がその変化そのものになりなさい)

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マダムキッコのおもてなしレシピ

キッシュ

突然のお客様のおもてなしに大変重宝します。休日の遅めのブランチにグリーンサラダを添えてお皿に盛りつけるとおしゃれな一皿になります。前菜として他の品と一緒にお皿に盛り込む ときは少し細めにカットして下さい。中身の材料を色々とアレンジし、新緑の季節にはグリーンアスパラ、秋にはきのこ類、またサッと茹でた角切りのカボチャとハムなど色々工夫しますと 季節感のある一品になります。

東京都・称名寺坊守石川紀久子

 

○材料(6人分)
<タルト材料>バター:110g卵:1個小麦粉:200g
<具材>
ベーコン(ブロック)・・・・・・・・・・100g
にんじん・・・・・・・・・・・・・・100g
小玉ネギ・・・・・・・・・・・・・・・12個
ホウレンソウ・・・・・・・・・・・・・一束
さとう・・・・・・・・・・・・・・・・少々
バター・・・・・・・・・・・・・・・・少々
サムソチーズ(半硬質)・・・・・・・・100g
<アパレイユ>牛乳:150cc生クリーム:50cc卵:4個塩:小1/2

○作り方
@タルト生地を作る。ボールにバターを入れ柔らかくし、小麦粉・溶き卵を加えよく練り、ラップで包み冷蔵庫で一晩寝かし、のし棒でのばしタルト型に敷く。
Aベーコンは1cm角に切り水から1分煮てザルに あける。ニンジンを1cm角に切り鍋に入れヒタヒタになる程度水を入れ火にかけ、バター・さとうを加え汁気が無くなるまで煮る。小玉ネギの皮を剥き10分弱煮る。ホウレンソウをサッと茹 で水に浸しアクを抜き、水を絞り4~5cmに切る。
Bボールにアパレイユの材料を混ぜる。
Cタルト型にAのおろした具材を敷き詰めBのアパレイユを流し入れ、上におろしたサムソチーズ を散らし、170℃に温めたオーブンで40分焼く。

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おシャカさまの教え
親鸞聖人七百五十回大遠忌法要にむけて

J『拝読浄土真宗のみ教え』の刊行

み教えをわかりやすく表現

 『拝読浄土真宗のみ教え』(本願寺出版社刊)は、浄土真宗のみ教えをできるだけわかりやすい文章で拝読、拝聴することができるよう作成されたものです。

浄土真宗のみ教えが伝えられるうえで大きな役割を果たしてきたものに、蓮如上人の『御文章』や『領解文』があります。『拝読浄土真宗のみ教え』は、これらのよき伝統と精神を受け継ぎ、現代のことばで表現した文章で構成されています。

 

「浄土真宗の救いのよろこび」

 『拝読浄土真宗のみ教え』に収載されている「浄土真宗の救いのよろこび」という文章は、一人ひとりが自ら阿弥陀如来の尊前で拝読、拝聴することで、浄土真宗の救いのよろこびを深めることができます。

このほか『拝読浄土真宗のみ教え』には、「親鸞聖人のことば」「折々のことば」や「浄土真宗の教章(私の歩む道)」などが収められています。朝夕のお参りや、折々のご法縁で繰り返し拝読、拝聴す ることで、み教えをより深く味わってまいりましょう。教学伝道研究センターが研修会を開催なお教学伝道研究センターでは、研究員が教区・組・寺院に出講し、『拝読 浄土真宗のみ教え』の内容や活用方法を学ぶ研修会を開催しております。詳しくは、教学伝道研究センターにお問い合わせください。

 

教学伝道研究センター東京支所電話(03)3546-8118

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おシャカさまの教え

第十一章  智慧と慈悲のはたらき

〔如来に等しい〕
  如来さまからのはたらきかけによって、お念仏を称え、如来さまの智慧と慈悲のお心をいただくことができたとはいえ、私たちは、肉体をもって生きているかぎり、煩悩多き凡夫のままです。しかし、そうであってもお念仏の智慧は、この煩悩の心身にはたらいて、私たちを内から変えていきます。このことを親鸞聖人は「この世で、すでに成仏が約束された状態」(現生正定聚)であり、「如来と等しい」と言っておられます。この考え方は法然聖人にも無かったことで、親鸞聖人独自のお考えです。

〔慚愧と歓喜〕
  如来の智慧の光が私に灯るとき、その光が私自身を照らします。そのとき明らかになるのは、煩悩に支配されている醜い私の実態です。光に照らされてはじめて見えてきた私の内面です。そこに起きるのは、ただ恥ずかしい「慚愧」の心です。しかし、その思いが起きることこそが真実が私にはたらいている証拠だと言えましょう。いずれにしてもこの私をふり返るとき成仏の可能性は見えません。「慚愧」のわが身は、そのまま「悲嘆」のわが身です。しかし、そのような悲嘆のなかにおいてこそ、私を救いたいという、あくまでも私を見放さない(摂取不捨)如来のお心に、大きな喜び(歓喜)をもって気づくことができるのではないでしょうか。真実にめざめた念仏行者の心は、まさに「慚愧」と「歓喜」の交錯です。

〔如来のお心に生きる〕
 如来の智慧のはたらきによって、真実とは何か、どのように真実に生きるか、ということに気づき、その生き方へ方向転換していくこと、それが「救われる」という言葉で表現される自己変革です。現生でその方向を目指すものは「菩薩」と言われる人格です。親鸞聖人は、念仏の行者は「弥勒菩薩と同じ」であると言われています。ここで「弥勒菩薩」を例に引かれたのは、一般的にはこの菩薩の「次の世で仏となることが決まっている」(一生補処)という性格の特徴からであると考えられますが、それだけでなく念仏の行者が、現生でもこの最高位の菩薩と同じ特徴をもち自利・利他の実践を行うものであることを言いたかったのではないでしょうか。
 たしかに、煩悩に眼をさえぎられている私たちが自己の愚かさや真実の世界に目覚めることは至難のことです。如来からのはたらきかけによってはじめて気づくことです。しかし、如来の「はからい」(手だて)によって、念仏を申す身となり、如来の指導を得て「私の歩む道」を歩むことができるようになり「往生浄土」が定まったかぎりは、如来の願いにそって念仏の教えを弘めるとともに、少しでも人々の苦悩を軽減して、世の安穏のために努力をしていくことが菩薩としてのあり方でしょう。それが「御恩報謝」と言われる念仏者の実践にほかなりません。

 

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おシャカさまの教え

Q.浄土真宗では、どのようなお経を読むのですか?

A.浄土真宗は、数多くある仏教のお経(経典)の中から、阿弥陀如来とその浄土について説かれた経典をよりどころとしています。阿弥陀如来を中心に説いた経典は 三種あり、「浄土三部経」と呼ばれています。浄土三部経とは、『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』です。いずれも私たちが仏になる道として「南無阿 弥陀仏」の念仏をすすめています。

特に『仏説無量寿経』には、阿弥陀如来による私たちすべてを平等に救うための願い(本願)が説かれています。この経典に収められている「讃仏偈」や「重誓偈」は、浄土 真宗で日常読まれるお経です。

 また親鸞聖人によって著された「正信念仏偈」(「正信偈」)は、朝夕のお勤めに用いられています。「正信偈」とは、『仏説無量寿経』と阿弥陀如来の本願を説き明かした七人 の高僧を讃えた偈で、浄土真宗の教えの要が凝縮されています。

 

(教学伝道研究センター東京支所 前田壽雄)

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有縁散歩

特別展親鸞
茨城滞在20年の軌跡 [二月六日〜三月二十二日]


親鸞聖人坐像(願入寺所蔵)
  親鸞聖人は90年の生涯のうち、壮年期の20年間を茨城ですごされ、茨城を拠点に布教を進められました。それは茨城の自然と風土のなかに身をおかれ、そこに生き
る人びとと語り合い、親交を深める日々でもありました。さらに親鸞聖人が帰洛後も、門徒のなかには決死の覚悟で上洛して、親鸞聖人から直接教えを受ける者もありました。
 また親鸞聖人ご自身もご門徒に対して、消息を送って丁寧に教えを伝えておられます。つまり、帰洛後であっても間接的ながら30年もの長きにわたって茨城の人びとに密接に関わっておられたのです。
 今回の特別展では、親鸞聖人の生涯と思想、親鸞聖人を支えた家族と社会、そして親鸞聖人が京都に赴かれた後も、師の教えを受け継いだお弟子(同朋)たちの動向という、3つの視点から茨城における親鸞聖人の軌跡を辿ることで、滞在20年の意義を探ります。


一、親鸞聖人の生涯と思想


恵信尼坐像
(西念寺所蔵)

●ご誕生からご往生まで
親鸞聖人のご生涯を関東の御旧跡に伝わる『鸞聖人伝絵』やパネルを通してたどります。
 また親鸞聖人直筆の『教行信証』坂東本が初めて茨城の地にて展示されることとなりました。また関東の御旧跡寺院に伝わる親鸞聖人直筆の著述や『歎異抄』を紹介します。

親鸞聖人消息集(専修寺所蔵)



拾遺古徳伝絵(無量寿寺所蔵)

●師、法然聖人
 このたび増上寺のご協力のもと法然聖人の主著である『選択集』を展示します。
 また増上寺に伝わる『法然上人絵伝』と浄土真宗系の法然聖人の伝記である覚如上人のお書きになった『拾遺古徳伝』を並べて展示させていただき、同じ場面の伝え方の相違などが比較出来ます。

●阿弥陀と太子
 茨城での布教の前提となった平安末期の阿弥陀像、親鸞聖人のご布教の特徴ともいえる聖徳太子像を紹介します。また御旧跡寺院に伝わる『聖徳太子絵伝』も展示されます。



聖徳太子絵伝 第4幅
(妙安寺所蔵)

二、親鸞聖人と社会・家族
 親鸞聖人が流転の果てに茨城に来られた、というこれまでの概念が最近の研究によって見直されています。親鸞聖人の茨城での活動を支えた社会的・経済的基盤と聖人を支え、その最もよき理解者であったご家族の動向を辿っていきます。
●親鸞聖人、茨城に来たる 
 はじめての茨城の布教の拠点としたという大高山(願牛寺の伝承)、下妻周辺のご足跡を下妻市や常総市を九条家や宇都宮氏の資料から探ります。
●親鸞聖人の生活基盤 
 親鸞聖人にとって最も重要な拠点であった稲田郷と恵信尼公と関係の深い小鶴荘園の様相を九条家や宇都宮氏の資料から探っていきます。

●親鸞聖人の家族
 親鸞聖人の教えを受け継いだ覚信尼、如信、唯善を紹介します。

三、二十四輩と門弟
 親鸞聖人に帰依し、県内各地に拠点を築きながら、親鸞聖人の教えを広めた面授の弟子の足跡を、地域ごとに、御旧跡寺院の宝物を展示し、その特色を探っていきます。

講演会「茨城の親鸞」
2月28日(日)午後1時30分〜
講師:今井雅晴氏(筑波大学名誉教授・真宗文化センター所長)※先着200名

親鸞歴史講座
各日とも午後1時30分〜
親鸞の生涯−歴史と伝承のなかで−
2月13日(土)
茨城の門徒1−県北・県央・鹿行地域−
2月20日(土)
茨城の門徒2−県南・県西地域−
3月6日(土)
親鸞以後の茨城の浄土真宗
講師 :飛田 英世
(茨城県立歴史館学芸課首席研究員)
3月13日(土)※先着200名

(開催要項と飛田英世氏への取材により編集委員酒井淳構成)   

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仏教書レビュー

http://www2.hongwanji.or.jp/kyogaku/review/index.htm

このコーナーでは、近年刊行された仏教書を紹介していきます。ホームページでは、より多くの仏教書を取り上げています。

 

◇島田洋七著

『がばいばあちゃんお寺へ行こう』
本願寺出版社735円(税込)2009(平成21)年6月25日発行

本書は、『佐賀のがばいばあちゃん』の著者、島田洋七氏が、どんな状況でも生き方が強く明るかった祖母について、お寺参りのエピソードをまじえながら綴った一冊です(「がばい」は佐賀の方言で「すごい」の意味)。著者の祖母はいつも「ナマンダブ」を口にして地元では「お念仏ばあちゃん」として知られ、貧しい中でもお参りを何よりも大切にしていました。その後ろ姿を見て育った著者は、お寺は「お坊さんや近所の人からいろいろなことを教えられた」「遊び場で安心できる空間」と述懐しており、お寺の魅力を再確認させてくれます。

 

 

 

 

◇青木新門著、寺田周明写真
『転生回廊聖地カイラス巡礼』

文藝春秋(文春文庫)730円(税込)2009(平成21)年8月10日発行

著者は『納棺夫日記』で知られる青木新門氏。納棺の現場でたびたび不思議な光に出遇っていた著者は、さまざまな仏典をひもとくうち、そこに説かれた「光」に鮮烈な驚きを受けました。本書は、著者が納棺の時に見た「あの美しい光」にもう一度出遇いたいと思い、チベットの聖地・カイラス山へ巡礼した記録です。巡礼の途上で心に浮かんだことを親鸞聖人の言葉などによって確認していき、やがて「慙愧の回心で己の愚かさに気づいて大いなるいのちに生かされて生きていると気づいたとき、それが再生だ」との思いに至ったと語っています。

 

 

「仏教書レビュー」ホームページ
http://www2.hongwanji.or.jp/kyogaku/review/

教学伝道研究センター
本願寺教学伝道研究所東京支所

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ひと

不二稿 京ふじわら けい

1957年生。熊本県出身。女優・劇作・演出・映画監督。'81より唐十郎氏に師事し、「唐組」の旗揚げに参加。'03、アートスペース「不思議地底窟青の奇蹟」をオープンし、現在そこを拠点として、演劇の上演や自主映画を上映中。

 

「阿弥陀仏の救いを舞台で」

 

 不二稿さんは実家が熊本県の浄土真宗寺院の門前にあり、幼少のころよりお寺やお仏壇が生活の中にあったという。近年の作品は特に浄土真宗の教えに基づいた演出になっている。

 最新作「幻探偵」を観た。親鸞聖人の言った悪人、悪性、煩悩とは何かをとことん突き詰め、きれい事では言い尽くせない人間の本性を強烈な表現で描いている。

 その舞台を見ると、人間の本当の姿はこういうもので、私の心の中はこういう事なのかと気付かされる。

 舞台の最後の台詞は、一席の説教を聞いているようである。自らの悪性を悔い、舞台では直接阿弥陀仏は出てこないが、何かを憑む姿となり、悪人こそ救われていく教えにあい慶びの中で舞台は終わっていく。

 作者はこう言っている。「阿弥陀仏の本願は老少善悪のわけへだてなく、すべての者を救うてくださること。ただ、念仏ひとつで阿弥陀仏に救うていただけよ。」という親鸞聖人の言葉を知ったとき、私は一瞬、生命として存在することの謎を解く宇宙の構造が透けて見えた気がした。エゴから解放されることも出来ず、貪りのままに生命に固執する愚かな存在、決して悟ることなど出来ないそんな「私」をそのまま救おうというのである。(中略)

 自分の姿に気付いた時に自分が救われてゆくいわれを知る、畜生のような自分でも、救われたいと思う心を持っていることに驚愕し、私は私のような愚かものでも生きていて良いのだよと赦された気がした。(中略)

 南無阿弥陀仏が「帰命無量寿如来 南無不可思議光」であることを知ったのはごく最近のことである、と。

 今後の活躍が楽しみだ。

(文責 白川淳敬)

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